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クリーニング宣言~清掃と掃除のあいだ~




服従は退屈で、反抗は不可能で、闘争はあやふやである。(バルザック『ゴリオ爺さん』)


一般化できない!一般化できない!一般化できない!あー、一般化できない!(酒井拓也 かわかみ一部修正)


清掃+掃除=「清く掃く除く」=「クリーニング」

固くて、胡散臭いが、まずは清掃と掃除の言葉について考えてみる。広辞苑によると、掃除は「ごみやほこりをはいたり拭いたりして取り除くこと、清潔にすること」をいい、清掃は「綺麗に掃除をすること」をいう。「清掃」と「掃除」は、どちらも「汚れなどを取り除いてきれいにする」という意味で違いはない。しかし、「掃除」が主にゴミ捨てや物の整理といった単純な作業を指すのに対し、「清掃」はそうした作業はもちろん、薬剤などを使って微細な汚れまで落とすことまで含む点で使い分けられる。一般的に見て、「清掃」の方が「掃除」より大がかりで精緻な作業を指す。漢字の特性から見ると、清掃は「清く掃く」、掃除は「掃く除く」。清掃と掃除を合わせて、「清く掃く除く」となる。要するに、清らかに、掃くこと、そして除くこと。これが清掃であるとともに掃除である。この「清く掃く除く」ことを、「クリーニング」と呼び、クリーニングをする人を「クリーナー」と呼ぶ。


コミュニティ空間は包摂と排除が存在する

ところで話は変わるが、コミュニティ空間をつくることを考え、誰でも入れる誰にとっても素晴らしい空間を作ろうとする。すると、実はその空間は、誰でも入れる空間が好きな人が集まる空間であり、そういう空間が嫌いな地味で陰キャな人にとっては入りにくい空間になってしまう。なので、本当の意味で誰もが入れる素晴らしい空間を提供できているわけではない。物理的には誰でも入れても、心理的には誰でも入れるわけではなくなっている。コミュニティを作ることには、境界線を必ず作ることであり、包摂と排除が意識的にも無意識的にも存在する。そのように考えると、「清く掃く除く」という行為がコミュニティ作りには大事である。学校のいじめについて同じことが言えるのかもしれない。「いじめはダメ絶対!」と言うよりは、極端かもしれないが「スマートな排除の方法を一緒に考えよう!」のほうが可能性があるのではないか。どうしても意見が合わない人や集団はあるのだから、どうしたらお互いがすっきりできる排除の仕方というか、距離の取り方、差異があることの認め方を考えることはできないだろうか。でも不登校になることは悪いことではない、それは距離をとる方法のひとつであり、選択であるから。まあ、引きこもりや不登校の話をしてもしょうがいないので、次に行きたいと思う。


到来する存在はなんであれかまわない存在である(アガンベン『到来する共同体』)

「東京メンタルクリーナー」もある意味、コミュニティ空間を作ろうとしている。ここでクリーニングは「清く掃く除く」という意味合いを含む。


自分の部屋のクリーニング

ここで想像してほしい。家の中で自分の部屋をクリーニングするとき、机の上は綺麗にするが、机の中はごちゃごちゃにしてしまっている、ドデカミンの缶は捨てられないが、ポカリのペットボトルは捨てることができるなど、クリーニングする場所としない場所、クリーニングするモノとしないモノが出てくる。これらから、クリーニングをすることとは、クリーニングをしないことも含まれる。そしてモノや場所の包摂と排除を繰り返し行なっている。クリーニングとは、私とモノ、私と場所との関わりの意味を作り出す、そしてその関係性を自ら選択し、支配することができてしまう。さらに、それをコミュニティの人と人の関係性まで拡張するとともに、クリーニングという行為がどこまでも関係性を拡張してしまうように思える。しかしこれは言い過ぎかもしれない。


クリーニングは誰でもできる

クリーニングとは誰でも行える行為であり、じつに簡単な作業で、いかなる時間や場所でもできてしまうのだ。もちろん特殊清掃などの専門性の高い掃除も存在することは事実だが、ここではそういうことを言いたいわけではない。誰でもクリーニングができ、誰でもモノ、ヒト、コトとの関係を操れるとしたら、大袈裟だが誰もが神様になれると言えるかもしれない。日本の八百万の神やギリシャ神話などの多神教ではよくあることだろうが。サリンジャーの「フラニーとズーイ」で出てきた「実はキリストは、テレビの前で寝ながら番組を見ている太ったおばさんなのだ」と言うが、普通の俗物的な人が神様であるということと、少し似ているかもしれない。誰でも平等に思い上がれるのだ。


清く掃く除く⇔清く吐く覗く

クリーニングという包摂と排除の実践、それぞれの人がクリーナーとしての選択者となり支配を体験することは、この社会の中で自分自身の精神の安定や不安定の実感のためにも一つ重要な手段になるような気がする。さあ、まずはクリーニングをしてみよう。そこで、綺麗にすること、モノを捨てること、モノを排除することは、罪深いことをすることと同じように思えてくるのかもしれない。もしそれが本当であれば、「清く掃く除く」からおそらく「清く吐く覗く」に変わっていくのだろう。清らかに、溜まっているものを吐く、それは言葉でも汚物でもなんでもいい。そして、見たこともない、見てはいけないところを覗くことでもある。クリーナーはもはや罪深きスパイもしくは嘘つきピエロみたいなものかもしれない。


病棟での清掃員との出会い

この話は、私が精神科医として、病棟にいたときの話だ。この病棟は、包丁が飛んできそうな殺気のある病棟として有名な場所であった。患者さんたちは、そこに何十年間もほとんど同じ仲間たちと過ごしている。どんな狂気のない人間でも、自然に狂気という空気みたいなものを飲み込み、それを知らぬ間に表現してしまうような雰囲気が漂っている。患者さんの院外外出2時間は、まるで私たちの東京から箱根へ行くような遠征と似た感覚がある。この閉鎖病棟に長く滞在していると、平気と自身の世界観が実体よりも縮小されていく。実物の世界より想像の世界が優勢になりやすい。そんな病棟である事件が起こる。とある患者さんがある患者に暴力をふるった。実際このような事件は日常茶飯事であるが、この患者さんは具合がわるそうだったので、刺激の少ない保護室というところに入ってもらうように、お願いした。すると、「清掃員の○○さんに保護室を掃除させてくれたら、保護室に入るよ」と彼は述べた。清掃員という役目が、精神科病院の中にあることをはじめて知った。清掃員は毎日同じ場所を同じ時間に、同じ掃除道具を持って、掃除している。学校のチャイムのように繰り返し、そこに同じリズムを奏でているのだ。自然とそのリズムに乘って、患者さんたちも自然と清掃員と会話してしまう。英語の「日常会話」という本に書いてある会話から、世間話、リアルな困り事など、医療者には話さないことをひたすら話し続けているのだ。それはまるで、詩に近い。じつに目的や要求、操作がない、純粋な真珠のような言葉である。


人と人とのあいだのコミュニケーションでは、その媒介物が重要

この小題のことが、決定的に核心を得た作品がある。それは「キュンチョメ」というアーティストの「私は世治」という作品だ。トランスジェンダーに悩む子供とその母との対話と行為の映像作品である。彼らは一緒に書道で、2つの名前を書く。一つは、親が子供に与えた名前。もう一つは、子が自分自身で決めた自分の名前。本人が筆を持ち、母がその筆を本人の手の上から持つのだ。まるで小学1年生のはじめての書初めで、母と子供が一緒に筆を重ねるように。筆で、まずは一つ目の両親が付けた名前を黒の墨汁で書き、そのあとに本人が改名した名前を上から赤色の墨汁で書き直すのだ。この動作をしながら、彼らは対話する。「本当に名前を変えたいと思っているの?」と母が話し、「本当だよ」と本人が言う。この親子はこのような話を今までにたくさんしているはずなのに、母が本人のジェンダーの違和感について、理解をしていなかったことがわかる。しかし、この名前を修正することで、本人の覚悟というか、本人の生き方を、母が身を持って感じる機会となる。それが母が、「本当なんだ」という驚きの表情から、それが伺えた。話す内容が相手に伝わるというのは、頭の中での思考ではなく、身体としての実感なのだろうか。そこの圧倒的な説得力が出ている作品だった。母と子供のあいだには、筆を使って名前を修正するという動作が媒介となり、どこか深い場所でつながったのだろう。


日本の精神医療の病院から地域へ

日本の精神科病院のベッド数は世界一と言われている。世界の情勢としては、どんどんベッド数は減少し、イタリアはゼロにまでなっている。日本は世界と比較して、圧倒的に減少速度が遅い。おそらく、1900年の精神病者監護法の影響による臭いものには蓋をする、面倒なものは隠すという文化が残り、精神科病院が社会適応の悪い患者たちの受け皿になっており、一向に地域社会がその面倒を受け入れることができないからだろうか。また精神科病院が赤字経営しないための目論みだろうか。一方で、患者たちは、慣れた病院生活を謳歌しており、地域で暮らす苦労はしたくないのだろうか。その他にもさまざまなことが考えられるし、さまざまな事情があることだろう。では、実際に日本の精神医療が病院から地域へ移行することが、患者や国、地域に暮らす人たちにとって、ベストなことだろうか。


病院から地域のあいだ、そのあいだの振る舞いとしてのクリーニング

ところで、人間は今までの慣習を変えるということに対して、どれだけのストレスを感じるだろうか。今まで慣れた職場から違う職場に転勤するだけでも、慣れるまでかなりの時間や労力を要する。やはり変化をするためにはコミュニケーション、特に媒介となるものが欠かせない。それは心理療法や精神療法を専門とする業界で自明のことだろうし、精神科ラダーと言われ徐々に負荷を増やしていくものでもある。私は、病院から地域への移行の前の媒介物を創造したい。かつては、東京都立精神保健福祉センターがやっていたホステルや短期宿泊など、病院と地域のあいだを担う施設があった。もちろん今でもやられている。しかし、支援者側からみた病院から地域の移行であったかもしれないし、あくまでも空間としての場所であり、なんら行為は入院での振る舞いと似ている。もちろん短期宿泊で地域移行できた人はたくさんいた。本当の意味で病院と地域のあいだを担うというのはどういうことだろうか。私は、そのあいだで誰もが振る舞え、さまざまなモノやコト、ヒトをつながる可能性を秘めた「クリーニング」を提唱したい。病院の中での空間のクリーニング、地域の生活空間のクリーニング、まったく関係ないレストランや神社、公的機関、変電所、郵便局などでのクリーニング。分かり合うことが難しい人と人との間のコミュニケーションでは、その媒介物が必要であると「キュンチョメ」の作品で述べた。まさにクリーニングが、病院の現状を色々な人が身体的な体験を通して実感できるのと同時に、地域の中でどんな場所があるのかどんな人がいるのか、どこなら隠れて生活できるのかなど、クリーニングをしながら考えられるのではないだろうか。クリーニングの目的は、きれいにすることだったり、整理整頓したりするかもしれないが、その行為には本人自身が生死をかけてまでも生活していく空間であることを認識する力になるまいか。それは「縄張り」行動と似ているのかもしれない。人手の足りない地域に患者を退院されていく前に、とりあえずクリーニングをしてみないだろうか。そこで、ろうそくの火が燃え上がり、何かしらの想像力が至るところで弾けはしないか。そんなことを日々考えている。個人的には、一概に病院から地域に出て行く前に、皆でクリーニングして彷徨ってもいいのではないかと思う。その瞬間に何か知らぬところから大きな音を立てて、何か全く知らない出来事が動き出すのではないかと、期待してみる。いや敢えて期待するのはやめておく。


参考資料:

バルザック「ゴリオ爺さん」

アガンベン「到来する共同体」

サリンジャー「フラニーとズーイ」

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